従業員たちに相手にされない日々
24歳の青年が背負うにはあまりにも大きすぎる金額と責任、そして夢。それでも、ここで“日本酒”に人生を懸けることを決めた。
だが、覚悟だけで事業が急に上向くことはない。晴れて蔵元となった加登さんを待っていたのは、想像を超える「最悪」な経営状態と、その状態に慣れてしまった従業員たちだった。長年同じメンバーで働いていたことによる居心地が良いだけの体制に、古い慣習。都会からやって来た「たびんもん(佐渡弁で旅の者。島外の人、よそ者を意味する)」、しかも一回り以上も年下の加登さんに対して当時の従業員たちはとても否定的な反応だったという。
「何か嫌なことを言われるとか、全ての意見に反論されるとかそういったコミュニケーションもとれず、まともに相手にされない。僕の存在は見えていないような、そういった反応をされました」
経営再建の第一歩として、「一切の聖域を作らず、無駄遣いをなくした」と語る加登さん。従来、出張時の新幹線は毎回グリーン車を使用、1泊1万円程する小綺麗なホテルに泊まっていた。天領盃酒造のある土地は借用地だが、相場の何倍もの金額を長年支払っていた。このような「無駄遣い」に対して、交通費は加登さん自ら最安値で手配して従業員に手渡し、土地代は貸主と直接交渉するなど一つひとつ正していく。
刃物の入った封筒が届いた
もちろん、この改革にも反発はあった。その場では指示に従ってくれ、少しずつ理解してもらえたと思った相手が、休憩所で加登さんのことを「裸の王様」と揶揄しているのを聞いたことも。それを聞いた加登さんが、怒りをグッとこらえながら、「裸の王様が入りま〜〜す!」とわざと明るく入っていったこともある。
今も誰の仕業か明らかになっていないが、加登さん宛てに刃物の入った封筒が差出人不明の郵送で届いたこともある。加登さんがその場に現れると、行っていた作業の手を止めたり、仕込み作業を止めたりするようなありさまだった。それでも加登さんは、酒造りに対する率直な思い、生半可な気持ちでやっているわけではないという熱意を伝え続けたという。
「その様子を見て、『ついて来れないと思うのなら、辞めてもらっていい』と従業員全員の前で宣言しました。一番歳が近い人でも40代、平均年齢60代なので、証券会社で働いていた頃を考えると、絶対服従だった支店長よりも上の年齢層の人たちです。
ですが、そんなことで遠慮するほどの生ぬるい気持ちで蔵元になったのではない。この酒蔵をもっと良くしたいという強い気持ちを伝えるための発言でした。13名いた当時の従業員のうち約半数が退職しましたが、企業の体制が変わる転換点で、人の入れ替えが起きるのは仕方がないことだと思っています」